1Q84 の感想、というよりタチのわるい追想

 だいぶ前だけど、村上春樹の新作を読んだ。
 これは、人生の一歩を踏み出す話だと思った。
 天吾は赤ん坊のときの記憶をうまく処理できないまま、何か宙ぶらりんのままに生きている。職にもついているし、定期的に相性の良い女性とセックスをしているけれど、彼の人生は停滞していた。それが「空気さなぎ」の騒動にかかわることにより、ゆっくりと動き出す。自ら動きだすことを決意する。父との決着。記憶との決着。彼はついに、自分がもっとも求めているもののために歩き出した。そこで物語は終わる。
 この読み方があっているかはわからない。青豆の話はうまく説明できないし、まあ、ただの一面でしかないだろう。でも、僕は「空気さなぎ」という言葉がひとごとのようには聞こえなかった。
 高校生の頃、小説のようなものを書き散らかしていたことがある。恥ずかしい限りだから、持っている人は破り捨てて欲しい。その燃えるゴミのなかで、僕は少年が青虫になってしまう物語を書いた。書こうとした。
 大学受験を控えた高校生(当時の自分)が、突如別世界に引きずり込まれ(逃避願望)、そこでは青虫になっているという話だ。それは「変身」の出来の悪いパロディーなのだけど、僕はマジメだった。なぜなら、僕は本当に青虫だったからだ。何もできない子供だったからだ。その物語のなかで、少年はさなぎになり、そして羽化をするところで話が終わるはずだった。だいたいのストーリーは考えていた。ドラゴンがいて、その呪いで人が死んでいて、でもそのドラゴンはただの言い伝えでしかなくて、正体は人間で、それを勇敢にも止めようとする友人を救うために、少年は羽化するのだ。これはひどい。なんて中二病だ。
 でも、少年は羽化することができなかった。
 それどころか、サナギにすらなることができなかった。
 サナギの中で青虫は液状化して、肉体を再構成する。そうだ。羽化するためには、中身が必要なのだ。僕は自分があまりにも空っぽすぎて、サナギになったらそれはがらんどうになってしまうんじゃないかと思った。少年にはバックボーンがまったく描かれておらず、それではさなぎになれない。成長を描かねばならない。ふむ、成長とはなんだろう。高校生の僕は、小学生の僕から見て成長しているのだろうか? せいぜい卑屈になってだけじゃないのか? 羽化してないやつが羽化の物語を書くだなんて、童貞がエロSSを書くようなものだ。ファンタジーだ。
 それで、物語は打ち切ったままだ。ときどきその物語を思い出す。僕はまだ青虫のままだとして、いつかサナギになるときが来るのだろうか。そもそも人は羽化できるのだろうか。羽化とはなんだろう。
 「空気さなぎ」という言葉は、だから僕にとっては。
 今日は自分語りが酷いな。ほんとうに中学二年生に戻ったみたいだ。明日仕事あるけど。
 1Q84はとても面白かった。今作はストーリーも追いやすく明確だし、序盤から殺し屋とか出てきてキャッチーでヨロシイと思う。