なすのカレーとセンチメンタリズム

 生物の進化は、いかにして行われるのか?
 これは科学的な問いなのであろうけど、同時に哲学的な問いでもあるはずだ。「ランダム進化から適者生存」という考え方もあるけれど、はたしてランダムに身体が変異していいっただけで、あれほど珍妙であったり合理的であったりする生物になれるものだろうか?やはり進化にはその生物自身の集合的意思のもとになされていくものだと思われてならない。まぁ、ここらへんは最近よく言われていることらしいけど。
 だとすれば人間だって進化の途上にいるわけで、僕らが「どんな生物になりたいか」によって、未来の人類は枝分かれしていくのかもしれない。僕ら個人個人の「なりたかった自分」という意思も、それには織り込まれ反映されているのかもしれない。もしそうなら、個人の死というのにもある程度救いというものが見出せそうだ。僕らの身体は今までに死んできた数億、数百億の生物の思いで構成されている。彼らの思いは僕らが生きている限り、無駄にならない。できれば、僕の心も人類の未来に含まれていることを願う。人が正しい進化の枝に乗れますように。そしてその正しい道がどうか途切れませんように。


 友人が上野の国立科学博物館に「テレビゲームとデジタル科学展」を見に行くというので、同伴させてもらった。出不精な僕だから、こういう企画は正直ありがたい。外に出ると刺激の種類が増えて、久しぶりに脳みそを使ったような気分になれる。味のなくなったガムをかみ続けたあとのごはんみたいなものだろうか。
 特別展はPONG以前のテレビゲームが展示してあったり、PCエンジンはマイナーであるかどうか談義で盛り上がったりで面白かったけど、やはりセンチメンタルになれるのは常設展だ。上野の美術館も常設展がすばらしいのだ。いつも変わらずそこにあるってことが、何がしか僕の琴線に触れるらしい。


 そのあと入った喫茶店で「ケニヤの日記は誌的になった」との指摘を受けたけど、そうかなぁ、高校のときもこんな感じだったと思うんだけど。そうでもないか。たしかにアニメ・漫画の話題が多かったかもしれない。昔の自分を見つめ直すのが怖くて読み返せないのだ。


追記:昼にカレーを食いすぎて、結局晩飯は抜いた。そして熱を測ったら微熱だった。食いすぎ注意。