システムと僕

 村上春樹イスラエルの講演をした。非常に印象的な講演で、ここのところふと気づくと思いを巡らしていたりする。「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」http://www.47news.jp/47topics/e/93879.php
 この「常に」という言葉は非常に重い。
 「システム」が「個人」を痛めつけるというのは、ある場合においては非常にわかりやすく、否定の対象になる。たとえば戦争だ。しかし、場合によっては否定しがたいものでもある。たとえば資本主義だ。資本主義というのは弱者を虐げることで回っていくシステムであり、ヒューマニズムから言えば肯定しがたい代物ではあるが、僕自身がその中でその恩恵を浴して暮らしている以上、それを否定するのは、なんというか、卑怯なようで後ろめたい。
 死刑制度であれ難民制度であれ、システムが個人を打ち砕く場合、そのシステムによって守られている人間もいるのだ。というか、それがシステムなのだ。
 だから僕は、「常に卵側に立つ」と言うことはできない。酷い性根をしているな、とは思うのだけど、残念ながら今のところ、それが僕の気持ちである。
 しかし、村上春樹のいう「卵と壁」というのは、本当はもっと繊細な、うまく言語化できないような何かなんじゃないかな、と思う。たぶん、羊に殺された鼠だとか、ワタヤノボルに奪われた奥さんだとか。