2001年宇宙の旅

 あの頃の夢が描いた軌跡を辿ることなく、僕らはまだ地球にいる。2008年の現在に「2001年宇宙の旅」を読むというのは、そういうセンチメンタリズムだ。
 映画は何度か観ていたのだけど、このたびめでたくノベライズ版も読めた。
 2001年という映画は、リアル系宇宙モノ・AIモノの典型をつくった映画で、その映像的なインパクトには恐ろしいものがあったらしい。らしいというのはその時代僕は生まれていなかったのでよくわからんということだ。なんせ、1968年だ。アポロ11号が偉大な一歩を踏み出す一年前である。
 ただ、映画はかなり眠い。小学生の頃に見たときは寝てしまった。何が眠いって、話がサッパリわからないのだ。印象的なカットが続くだけで、筋立てを説明してくれる台詞はほとんど存在しない。観客はストーリーを追う、というよりストーリーを想像する姿勢を求められる。逆にそういう、いくらでも想像の余地を残す構成だからこそ話題になったし、いまでも熱心なファンがいるのだろう。
 で、小説の方だが。
 小説のほうはたいへんわかりやすい。モノリスって結局なんだったの? HALはなんで反乱しちゃったの? 最後の意味不明な展開は何なのさ? つーか何で土星なんか行くんだっけ? ……といった疑問に丁寧に答えてくれる。もはや解説本の域に達している。
 まさかモノリスの製造者まで説明してくれるとは思ってなかったから、読んでいて「そこまでネタバレしていいのかよ!」と逆に不安になった。HALの反乱とかAIの混乱という短い説明で片付けられてるし。ほんとかよ。
 こういったひとつひとつを説明して解決してから次節に進むという小説版2001年のスタイルは、作家キューブリックと作家クラークの差異ということもあるのだけど、映像媒体と活字媒体の差異によるところが大きいように思う。映像媒体では謎は謎として残したまま、観客は「現在流れているもの」に集中すればいい。活字媒体では流れを読者の頭の中に構成させる必要がある以上、毎回の展開をある程度理解させる必要があるのではないだろうか。
 しかし、映画ではあれだけ怖かったHALが、小説版ではドジっ娘になっているというのは。なんというか奇妙な感覚だ。幽霊の正体見たり、なのかもしれない。まあ、邦訳あとがきによれば小説版は映画版の解釈の一例であって、正解というわけではないとのこと。「べ、べつにあんたたちに隠してることなんてないんだからねっ! ……でも、ほんとは隠してなんかいたくないのに……」なHALはクラークの趣味ということにしておこう。
 月面モノリス調査や平和な宇宙の旅など、ちょっと退屈な日常を混ぜ込んだあたりの描写が親しみやすくて楽しかった。クラークはあまり読んだことがなかったけど、好きになれそうな気がする。