24個目の読点

 大晦日は読点だろうか? それとも句点だろうか? きっと読点だと思う。僕の人生を見ている限りでは、人の一生程度で一段落を作れると思えないからだ。まぁ、どうでもいいことだ。人によっては句点だろうし、あるいは一段落だろうし、もしかしたら一作品と言い切る人もいるかもしれない。今の僕が読点だと思っている、そのことが僕にとって重要なのだ。一般化する必要はどこにもない。
 我が家は年の暮れは必ず紅白歌合戦を観ることになっている。僕は紅白歌合戦が嫌いだ。どうせ歌手も歌も日頃の不勉強が祟って知らないものばかりだし、トークはつまらないし、そのせいで会場は静まり返ってるし、演歌になると親父がハモりだして聞き苦しいし、ろくなことがないのだ。あまりに退屈だから家族でゲームでもしようと言っても、趣味が合わないので意見は一致しない。中学生の頃にやったモノポリーが家族でやった最後のゲームだったりするし、モノポリーだって一回やってそれからは家族でやったことはない。だから僕はご飯を食べ終わると居間から自室にひっこんで一人で紅白が終わるのを待つ。除夜の鐘の頃に部屋に戻る。正直に言えば非常に寂しい。寂しいので、ときどき居間の方を覗きに行く。だけれども紅白がつまらないのに変わりはないので、結局すぐ部屋に戻ってしまう。毎年毎日がそんなものなのだ。そんな自分は好きではないが、それにも慣れたという強がりを杖にしている僕がいる。
 外は雪が積もっている。明るいうちにデジカメであちこち撮影しとけば良かった、そんなことを考えている。
 またひとつ年が暮れる。24回も経験したら、もうありがたみはない。門松は 冥途の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし。「メイドのたび」と変換される、僕のPCだけは確実におめでたい。
 壁やドアを通して、紅白のくぐもった音が部屋まで届く。僕は天井の角を見る。
 「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ。」今年最大の収穫だった、カントの言葉を思い出す。生き方のアドバイスとして聞きたかった言葉がこれであり、実践の苛烈さに失望したのもこの言葉だ。よく生きるというのは難しい。非常に難しい。結局、自分に流されて生きるしかないのだ。そのなかでどれだけ「らしさ」を出せるかどうかだ。まったく、最初に「自分らしさ」とかいうアホワードを思いついたオタンコナスを拝顔してみたいものだ。
 時間。
 あと3時間で年が明ける。あと3時間で、24時間の繰り返しが365回つまったサイクルが再開される。
 漠然とした不安、期待、諦め、失望、無関心、それらを含んで、ここで今年2004年最後の日記としよう。来年も……来年は?来年が?
 来年、よろしくありますように。