ケニヤです。


日記もいいし(僕に書けるのなんてそれくらいだし)、
経済語りもいいし(ゼミに入るなら経済知らなきゃまずいし)、
もちろん旅行記も大歓迎です(興味あるしね)。


僕の人付き合いの仕方は
博愛主義でもなければ利己的主義でもなく
強いて言えば無気力放任主義です。


アダムスミスさんと言えば「神の見えざる手」という
妙に聞こえのいい言葉で有名ですね。
これが「神の見えない手」だったら誰も彼を信用しなかったでしょう。
訳者のセンスが光ります。


僕はスミスさんの考え方を
「誰もが自分本位でやってたら、それが自然と全体のために
なっているんだよ。これって幸せ?」
という風に理解しています。
市場参入、需要と供給、全て利己的な行動で調和が達成される。
(これに異論を唱えたのがケインズでしったけ?)


スミスさんの言う世界は社会も政府もなく、
各人が自由気ままに自分勝手に行動して、
それが全体のためになるという、ある意味では楽園のような世界観です。
ここでは他人への配慮が小さくなるのも当然ですね。


少しだけ話題が飛びます。
「利己的遺伝子」の話をします。
これは1976年にドーキンスさんが発表したもので、
世界的ベストセラーとなった『利己的な遺伝子』は91年に邦訳されており、
僕も中高の何時だか、市立図書館でパラパラとめくった記憶があります。
恐らく亀さんも承知の説だと思うので、概略だけ説明を。


全ての生き物は遺伝子の「乗り物」に過ぎない。
生物の行動、進化は遺伝子が増殖するための手段である。
これによれば、親が子を可愛がるのも自らのコピーを育てるために過ぎなく、
子を身を挺して救う涙劇も、若いコピーの方が増殖の可能性が高いからに過ぎない。
また、行動は遺伝子の集団のために行われる。
ミツバチの特攻、レミングスの自殺などはトータルの遺伝子の総量を
秤で量った結果に過ぎないというわけだ。


今日、これが科学的理解として正しいかどうかは微妙なところであるらしい。
だけど、ひとつの人生観としてはまだ機能している。


「自分」とは何だろう、ということを考える際の一つのヒントではあるんだろう。
僕らは実際に遺伝子に操られているわけではないけれども、
遺伝子で気質を造られ、それに従って性格を形成していくことは確かだ。
人生のおおまかな方向性は遺伝子と環境によって決まるのだ。


で、決まった方向性に抗うというのもめんどくさい話だ。
食って寝て子供作って糞して寝る、生きるのに必要な行為に
全て快楽が付随するように、
自分の気質に従うのは気持ちがいい。
遺伝子が定めたとおりに生きてもいいじゃないか。



しかし、そうは問屋が卸さない。
(書きながらどんどん話がずれていくのがわかる・・・・・・がどうしようもない。
 このまま続ける。)


各人が好き勝手に「遺伝子が言うのよ。これをやれって」とか
電波なセリフを垂れ流しつつ
路上で寝そべったり他人の庭で小便したりしたら世の中は成り立たない。


そこで義務教育が必要になってくる。
気質と言うのは持って生まれたもので、
性格と言うのは後天的に身に付けるものであるらしい。
性格とは他者とのコミュニケーション術とも言える。
この性格を形作るお手伝いをするのが義務教育である。


例えば日本と言う集団があって、
この集団全体を見て、トータルで生きやすいように社会と言うものを作る。
んで、その社会に合うように性格を押し付けてやる。
これが義務教育というものだろう。
なんで大卒が優遇されるかって、そりゃ
社会に合うように性格矯正を4年間受けたからなのだ。


もっとも、実際には人間は
遺伝子的気質+義務教育的性格+その他環境による性格
による振る舞いをする。
3つめが非常に難解かつ複雑で、これは


駄目だ。話がずれすぎた。時間もかけすぎた。
最終的に
「何が正しいと言うわけでなく、
 自分が求めるようにやればいいんではないか」
という糞の役にも立たない結論に持っていこうと思っていたのに。


日々を無気力放任に生きていると文章までまとまらないという話。
またの機会に再トライ。



【今日の買い物】
アンクルウェイト1.5kg×2 ¥1,400-


昔を懐かしむ気持ちでついつい買ってしまいました。
僕が大学二年の頃、オリエンテーリングも熱心にやっており、
日常でこのウェイトを足首に巻いて生活していました。
外国語の授業で黒板に出て答案書くときも付けたまま。
クラスに友達居ないので突っ込まれません。ビバ孤独。


アンクルを巻いてもひとり


巻いて巻いて、破れてしまったので、52%引きなのをいいことに再購入。
久々に巻いた感触は、思い出の慣性の法則
重くなっただけ足が振り回されるような感じがします。


さて、どう使ったものか。