西日本旅行記2005初春 その1 初日〜四日目
初日 2005年3月18日 新宿→大阪→高野山
- 根本大塔 :曼荼羅状に配置された金ピカ仏像は圧倒的な存在感と威圧感。お清めの香の匂い。冷え込んだ澄んだ空気。無人の静寂。仏像は単なる芸術作品ではない。
- 奥の院までの道 :戦国時代からの有力者・著名人、他庶民、企業、戦没者、被災者、古今東西あらゆる墓墓墓。墓のかたちに人柄や財力などが伺える。
- 精進料理 :箸をいれるとぱっくり分かれる湯豆腐。しゃくしゃくと気持ちよく噛み切られる野菜の天ぷら。
大阪早朝にバスで到着、南海電鉄で一路高野山へ。山へ山へ進むうちに、みるみるうちに電車内が冷え込んでくる。終点の極楽橋で高野山行きのケーブルカーに乗り込むころには、コートの下にトレーナーとベストとカーディガンを重ねるというありえない防寒体制に移行していた。高野山の海抜1000メートルを舐めていたことを自覚させられる。さすが修行場。
高野山の中央に位置する観光局のコインロッカーに荷物を預け、適当に散策を始める。徒歩で歩き回るのが僕のスタイルだ。
西の大門に向かって歩いてみる。金剛峰寺や宝物庫などを翌日のためにスルーして、伽藍などを覗く。中に入れる建造物は多くないが、なかでは根本大塔がオススメである。弘法大師さんが苦労して設計したという小さな塔で、仏像と柱が曼荼羅状に配置されています。ただそれだけなのに、わけのわからない妙な説得力みたいなものを体験できます。なんかもう説明するのがめんどくさいので、これはもうさっさと足を運んでみてください。基本的に伽藍は空いていて、それは平日の午前中だったからかもしれない。仏教徒の修行場に神社が設けられているところが日本らしい。
道すがら食堂に寄って昼飯をとる。他人丼。高野山の食堂のメニューはどれも似通っており、必ず「親子丼」「他人丼」「木の葉丼」のみっつが含まれている。なにか伝統でもあるのだろうか? 聞いておけばよかった。ちなみに他人丼は豚と卵、木の葉丼はしいたけと卵である。
西の大門。家族連れに写真を撮ったりする。毘沙門天像はわりと迫力があるが、とりたてて感銘は受けず。電光掲示板に気温が3℃と表示されていた。正午であった。寒すぎる、寒すぎるぞ高野山。
徒歩で高野山の中央に戻り、そのまま東に位置する奥の院まで歩くことにした。
一の橋から奥の院までの道は墓地である。各藩すべての墓があるし、織田信長や武田信玄などの有名どころもほぼ全てが抑えられている。本人が頼んでおいてもらったのか、後世の人が勝手に供えたのか、よくわからない。織田信長なんかは比叡山を焼き討ちしておいて、高野山には墓を置くとかよくわからない。真言宗からすれば一向宗を焼いたのはむしろグッジョブなのだろうか。戦没者などの墓がなまなましい。そういうのはたいてい、部隊ごとに作られている。「あゝ同期の桜」なんかで有名な海軍予備生の記念碑などは墓のトップバッターで、千の手形と吹き出る炎というモチーフでかなりの異形を誇っている。ちょっぴり変わったものとしては企業関連の墓がある。工場作業員の像、ロケットをかたどった像、飛行機をかたどった像、よくわからないデザインの像、なかにはしろあり駆除会社による、しろあり鎮魂の墓などもあった。
奥の院に着く。弘法大師が眠る場所である。灯篭院は奥にも天井にも隙間なく灯篭が並べられ、空間的な圧迫感と灯篭の穏やかに優しい光とがからみあって、なんとも表現しにくい場を形成していた。うーむと頭をひねりながら、御廟を拝んで帰路に着く。
行きとは異なったルートを歩いていると、雪が降り始めた。雪と墓地というある意味では最高に雰囲気のあるシチュエーションで英霊殿などを見ながら歩く。英霊とは要するに第二次世界大戦の戦没者であって、伝説上の英雄の霊魂だとかそーいうものではない。誤解なきよう。
午後3時半。寒さに根を上げて、早めに宿に入る。宿坊である。寺が宿をやっているのだ。
僕が泊まった宿坊「成福院」は、宿坊初経験なので比較はできないものの、わりと当たりだったのではないだろうかと思う。ひとつは、風呂が10人程度が入れるような、わりと大きめだったこと。ふたつは、晩飯の精進料理がやたらとおいしかったこと。みっつめは、ネット予約をサイトで行えば宿泊料金一割引きがされることだ。難点は、とにかく寒いのでヒーターをつけるのだが、それで部屋内の空気が乾燥しきってしまうこと。それとトイレが共同使用であること。さらになんだかんだで宿泊料金が9500円の1割引きと高額なこと。ただ、高野山宿坊は12000円が主流のようなのでそこは良心的と評価すべきなのかもしれない。
メシフロ以外はひたすらに入社事前準備の参考書を読みふけりつつ、午後十時半に就寝。
墓道の杉は日本の杉の母である。つまり花粉症の仇敵。おまえみたいな奴がいるからっ!
二日目 2005年3月19日 高野山→大阪→高知
- お勤め :しかしこれに何の意味があるのだろうか?
- エッグタルト :東京でも食べれるけど、うまいものはうまい。
午前7時からの朝のお勤めに参加する。寺備え付けの仏壇豪華バージョンに向かって、坊さん達が般若心経っぽいものを唱え続けるというもので、これに宿泊者は参加という形で見学することが出来る。50分ほどだったろうか、正座だったために足は完全に痺れ切ってしまった。宿泊者が正座するところはホットカーペットになっていたようだし、ストーブも焚かれている。それにもかかわらず、お勤めが行われる堂はおそろしく冷える。恐らく、外気は零下を下回っていたのではないだろうか。
お勤めを見学していて思ったのは、こんなのやってられねえなということだった。こうして見学している分には「ああ変なの見たなアハハ」で済ませられるが、実際にやっている方は365日(交替制だとは思うけど)でやらなければならないわけで、3回もやれば飽きてしまうこと請け合いである。掃除洗濯炊事はやらなければ立ち行かないが、お勤めなんてやってもやらなくても何も変わらない。大昔なら何ぞか効果もあるだろうと素朴に信じることができたかもしれないが、今となっては単純に信じ込むことは難しい。それでもお勤めを毎朝行うのは、それが苦行という修行なのか、宿泊客へのサービスなのか。そもそも何故この人たちはこんなところで修行をやっているのだ?
考え始めると宗教者というものは謎である。無宗教の僕にとってカルチャーショックな朝のお勤めであった。
総本山金剛峰寺、宝物庫なども回ってみるが局所的に面白いところはあったものの深い感銘受けず。奥の院に再び出向き、墓観察をもう一度行う。19日は土曜日、お彼岸もち被いていることで旅行者の数は増えていた。人の多い墓場に用はあまりない。
昼過ぎ、予定を繰り上げて下山することにする。大阪まで南海電鉄で北上。
なんば周辺でたこ焼きやお好み焼きを食べ歩く。歩く歩く。食べる食べる。一番美味しかったのが東京にも出展している「アンドリューのエッグタルト」のエッグタルトだったのは、ちょっぴりお粗末様。まぁ、たこ焼きもお好み焼きもおいしいといえばおいしい。
コンビ二でジャンプなどを立ち読みしてから、深夜バスで高知へ移動。
墓道の立体写真です。交差法で見れば、立体的。
三日目 2005年3月20日 高知→中村→山の中の民宿
早朝に高知到着。
一日早く高知に宿をとっている友達にメールを送ってみたら、予想外に既に起きていた。日曜市とやらを見に行くそうなので、同行させてもらう。日曜市とは日曜に出る市であり、道路に出店でずらずらと並ぶという一般的なアレである。野菜や花、寿司や菓子といったものが主な売り物である。おはぎと寿司を買う。
本日合流組の乗ったバスが高知に到着したとの報を受けて、駅前で集合。朝飯を食ってから電車で移動する。
中村という町は、四万十川の最下流に位置する町のひとつである。カヌーくだりとかそういった楽しみ方でなく、もっと庶民的に普段の視点から四万十川を見るなら中村である。はたしてそれが楽しいかはよくわからないが、とりあえず水切り*1ができることはたしかである。
ただ、20日は雨が降っていた。清流・四万十川も雨には勝てない。一同はションボリと雨の中を歩いたのだった。雨の中をヤケクソ気味に水切りをして遊んだのであった。
四万十川にかかる橋近くにはアーケードがあって、そこではまたしても日曜市をやっていた。高知ではどこでもやっているのだろうか。友達はそこで一袋100円のボンタンを買った。五個だからひとつ20円だ。
アーケード近くの中華飯店「曼荼羅屋」は良心的な価格に凝った内装と美味しい料理という、高知にはもったないレベルの定食屋だった。今日の主な収穫。
曼荼羅屋を出ること頃には晴れていた。絶好調に水切り。
再び電車で移動。バスで移動。山の中の民宿に午後六時過ぎに到着。
晩飯はとにかく量が多かった。筍の煮物を若干残す。敗北感。
トランプをやったり、雲の切れ間から星を探したり、風呂に入ったりして、寝る。
四日目 2005年3月21日 山の中の民宿→四国カルスト→古味バス停→松山
- 20kmの杉林道 :ガイドブック著者には死んでしまえといいたい。
朝早くに民宿発。バスを乗り継いで四国カルストまでに移動。
カルストといえば山口の秋吉台だろうけど、四国にもカルストがある。そこを徒歩で越えちゃおうというのが今日のお題。7kgの着替えその他を担いで、歩き続ける。
カルストは石灰岩が雨水で浸食を受けて出来る地形である。窪みや奇岩などがウリで、石灰岩地層だからなのか高度ゆえなのか、樹木が生えることなく見通しが良い。ピクニック気分にうってつけであった。「あった」。
問題はカルストを通り抜けたあとに待ち構えていて、ガイドブックによればカルスト以後、最寄のバス停までは「徒歩1時間」。これが実際に歩いてみて現地のたて看板を見ると、「20km」。しかも一面はほどよく開花した杉林で、目に見える花粉の煙が充満している。僕の右目からは涙、涙、また涙。僕の鼻水からも涙、涙、また涙。花粉症祭り、大・開・催・中なのでした。
もうね、歩きましたよ。歩いた歩いた歩いた。
疲れ切ってバスに乗って、午後8時過ぎに松山に到着。松山道後温泉駅に路面電車で移動し、宿に荷物を預ける。
居酒屋で晩飯をとる。後ろでものぐさ坊主達が「荼毘に臥す」と「穢土(えんど、と発音していた)」の違いについて主張していた。荼毘が火葬、穢土が土葬らしい。そういえばジャンプ漫画のナルトに出てきた術に穢土転生なんていうのもあった。死体に土塊を加えて操る術だった。エグイ。
日本最古の湯であるところの松山道後温泉・「神の湯」に入る。人が多いくせに狭い。町の銭湯とたいして大きさが変わらないのは、観光地として言語道断ではないか。なんだかリフレッシュしきれないまま温泉を上がる。
宿で爆睡。
バスの待ち時間に見た四万十川。清い。
カルストに雪は残る。強い日差しに輝く白さが目に痛い。
カルストの空は飛行機雲の世界だ。図太く空に線を描く。
古味バス停近くの四万十川。巨石が多いが実は中流。
*1:平べったい石に回転をかけて投げることで水面を跳ねさせる遊び